一喜荘時代 其の九

 

 相変わらず生活は苦しかった。
短期のバイトで食いつないだりしながら
声を掛けられれば何処へでも歌いに行った。
ごく稀に、びっくりするほど高額なギャラを戴くこともあり
某女子大の学園祭に呼ばれたときなどは
15分ほどの出演で1万円も頂戴したことがある。
(現代に換算すると5万円くらいになる大金だ)
けれど、他のほとんどは足代程度にしかならなかった。
TENKOは新橋の中華屋でバイトして得たお金と
賄いの餃子を携えて来てくれたりしながら
金銭面や食事、マネ―ジャ―として応援してくれていたのだが
精神的には、そろそろ限界かなと感じるようになってしまった。
なにせ、喰うものに困り、金が無いのが一番辛い。

70年代というのは、趣味趣向が一気に多様化して
個々の価値観は世相に流されることなく自由度を増した
そんな時代だったのだと思う。
音楽やア―トの世界は商業主義の色合いをより濃くしながら
「売れるモノ」のイメ―ジを形作っていたわけで
その枠に収まらないモノは全く相手にされなかったのだ。

広告代理店が大きく躍進したのもこの時期だろう。
庶民の好奇心を引き出すために、彼らの役割は大きかった。
泥沼化したベトナム戦争を背景に混沌としていた60年代が終わり
世の中が豊かに美しく変わって行くような、錯覚にも似たイメ―ジは
人々が自由を謳歌しながら選択肢を広げて行く中で
多数派としてのブ―ムを、いとも簡単に作り上げられるようになっていた。
音楽に関して言うなら、よほどの才能と持続性がない限り
少数派の応援を後押しに続けて行くのは困難な時代だったのだ。
それは現代でも同じようなことが言えるかもしれないが
大衆に飲まれず少数派であり続けることの難しさは
今とは比較にならないほど敵が多すぎた、そんな気がする。

無力感に苛まれ、すっかり自信を失ってしまった僕は
歌うことが出来なくなるほど消沈していた。
何より己の貧乏さが情けなく、
TENKOの献身ぶりに応えられないことが腹立たしく思えたのだ。
何も成し得なかった敗北感は、それまでの破天荒な日常を
「安定した普通の暮らし」に大きく舵を切ることの妨げにはならず
僕はいわゆる「当たり前の暮らし」というやつに身を置くため
小綺麗なシャツにネクタイを締め、とある会社の面接を受けたのだった。
だが、それにはもうひとつの理由があり
もはや切るに切れない関係となってしまったTENKOを
嫁として迎え入れるために不可欠だというのが
実際には大きな要因だったのである。

なあに、会社勤めしながらだって歌えるだろうさ。
しっかりと言い訳まで準備して、僕の日常は大きく変わろうとしていた。


一喜荘時代 其の十

 
73年の秋、僕は数寄屋橋に本店の在った某中古レコ―ド店の社員となった。
どこかで音楽とは関わっていたい、そんな女々しさからなのだろうか
振り返ると、あまりにも短絡的なその選択には我ながら呆れてしまう。
けれど毎月決まった額の給金が入ることによって
胃袋は満たされ(恥ずかしながら)体重はすぐに5Kgほど増えてしまった。

始めてみると、休日は少なかったが仕事は楽しくて仕方なく
おまけに社販だと売値の6~7割でレコ―ドが手に入るものだから
毎月アルバムを20~30枚くらいの勢いで買い漁るようになっていた。
この店のモット―はあくまで「中古品」定価より安く販売する主義だったので
名盤だろうが廃盤だろうが、初版のオリジナル盤だろうがお構いなく
高くても1000~1200円で店頭の餌箱に並べられていたせいで
いわゆるコレクタ―と呼ばれる者たちから重宝され繁盛していたのだ。
(おそらく転売すると数千から数万円の利益を生む盤もあっただろう)
廃盤レコ―ドの専門店がプレミアム価格で高額売買していても
この店だけは頑固なほど中古としての価値しか認めていなかったわけで
マニアやコレクタ―や、はたまた同業者が大勢押し寄せ
毎日毎日、どの店もごった返して大繁盛していたのだった。

僕もその恩恵に授かり、名盤貴重盤を片っ端から買い漁り
しかも社販で700~800円くらいになるという「特典」付きで
実においしい思いを堪能しながらの職場だったので
どれだけ忙しくても、苦にはならず楽しく過ごすことができたのだ。
(実際、自宅のレコ―ドラックは3年ほどで千枚を超えてしまった)
餌箱には中古盤以外にも国内メ―カ―の不良廃棄品や
(再販制度の締め付けがあったので在庫処分とは言えなかったのだ)
大量に仕入れた(やや粗悪な品質の)数枚の格安輸入盤も並べられ
バ―ズのプリフライトとリンゴ・スタ―のカントリ―アルバムが
いずれも新品500円で売られていた。むろん即買い。
中でも最も粗悪だったのはビ―トルズのリボルバ―、
ドイツ盤300円のそれはペラなジャケットで盤は反り返り
著しく音質の悪い代物だったため、ほとんど売れなかった。

我が国には再販制度があるため定価販売しか認めらていなかった時代に
半額程度で売られている山ほどのレコ―ドを目にしてしまうと
それだけで興奮するし、大いに仕事の励みにもなるってもんで
僕は毎日のように袋を抱えて一喜荘へと帰って行ったのだ。
だが、こうなってしまうと以前のように歌うことはおろか
詩を書くことも曲を書くことも日常からは遠ざかってしまい
「歌を忘れて」リスナ―の殻に納まる罪悪感は多少なりともあった。
これでいいのか?いや、これでいいんだと言い聞かせながら
定収入で裕福になった僕の日常から、いつしか歌は消えて行った。

いつの時代も金の力は恐ろしい。
いったん手にすると、主義主張はおろかポリシ―までもがどうでもよくなる。
たとえ自分で稼いだ金であっても、それまで貧しい思いをした者ほど
掌を返したように変わってしまうことにさえ気付かないくらい
その頃の僕はバブリ―な気分で浮かれていたに違いないのだ。

居心地が良かったのか、この会社には18年も勤めてしまった。

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