一喜荘時代 其の十一

 
その某レコ―ド店の面接担当は当時の専務、三浦さんだったが
なんだかわからないけれど、とても気に入られ
話が弾んだ挙句に「ぜひ社長にも会ってくれ」なんてことまで言われて
入社前に新橋の事務所を訪ね、気難しい顔をした小柄な社長と
笑みを絶やすことのない、ふくよかな奥様にご挨拶をして来た。
どうやら、若い男性が入社するのは初めてだったらしく
僕のような者でも、えらく期待されてしまったようだ。
(確かに店内はおばちゃんと若い女性ばかりで
数寄屋橋本店には、男性はおっさんが一人居るだけだった)
期待の新人だったからなのか、数寄屋橋本店に居られたのはわずか一ケ月で
すぐにソニ―ビルの地下1階の店舗に移動させられ
そしてその翌年には大井町と、一年の間に3店舗も渡り歩く羽目に。
(東急線ガ―ド下の大井町店は場末感が際立っていたけれど
下町風情があり、客層が幅広いのは面白かったな。)

勤め始めて一年とちょっと、当たり前の暮らしを携えて
75年の1月15日に、僕はTENKOと結婚した。
彼女の発案で覚えやすい日(成人式)を選んだわけなのだが
今では1月の第二月曜に変わってしまい、当初の目論見は見事に外れた。
けれど数字の並びが良かったことが幸いしたのか
物覚えが悪い僕ではあっても、一度たりともこの日を忘れたことが無い。
(ちなみに、この30年後の2005年1月15日に僕が再び歌い始めたのは
真珠婚式にパ―ルの指輪を贈る代わりのプレゼントだったのだ)

この日を境に、四畳半・トイレ共同の思い出深い一喜荘を引き払い
南馬込の丘のてっぺん、西陽差し込むアパ―トに移り住む。
少しだけ広くなったとはいえ、六畳間と三畳の1DK・トイレ付。
大森駅の南側ともなると、家賃は5倍くらいに跳ね上がったが
相変わらず風呂は無い。(この当時、ほとんどのアパ―トが風呂無しだった)
それでも徒歩5分の所に銭湯があるのは恵まれている方だったし
GEの窓用エアコンを奮発したおかげで夏は快適に過ごすことができた。
当たり前の暮らしに共働きが加わると、少しだけ贅沢を味わえるのだ。

西の窓から見下ろす先に第二京浜があり
丘のてっぺんなので見晴らしが良く空も広かった。
いい所じゃないか・・安堵したのも束の間、
古くから住む1階の住人が陰険で、聞こえよがしに悪口を言われ
鬱陶しいので二年を待たずして引っ越す決断をした。
TENKOの日頃の服装や行動、部屋を訪れる友人への蔑視、
或いはレコ―ドや楽器の音、話し声が大きすぎるとか
下の階から、わざと聴こえるように窓から上を向いて言うババア。
煩わしいったらありゃしない。
苦情なんて、ただの一度も無かった一喜荘が懐かしく思えた。
*画像はおふくろと姉、そしてTENKOと僕

一喜荘時代(終)

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