一喜荘時代 其の参

 
たとえミュ―ジシャンの端くれではあっても
自分の歌を世に問いたい一心で田舎から出て来た。
「君の歌、今の東京なら絶対に受け入れてもらえるよ。
こちらに来られるなら、是非連絡ちょうだい。」
帯広のライブバ―で歌っていた頃、東大法学部の学生さんに
そう言われて連絡先のメモを戴いた。
彼もまたミュ―ジシャンで、彼女と二人旅の途中だったらしい。
その年の秋、京都を経て東京へ向かう折
深夜バスで早朝の八重洲口に到着する旨を彼に連絡すると
「自分は都合が悪くて行けないので
代わりに信頼できる友人を迎えに行かせる」とのこと。
え?知らない人なのに、どうやって落ち合えばいいの??
「平日の早朝に、八重洲口なんかで絶対に見かけないような
そんな格好の女性が行くんで、すぐわかるから大丈夫!」
ほんとかよ・・不安に苛まれつつ、朝の6時にベンチで待つと
人気の無い、がらあ―んとした八重洲口の遠くの方から
「かずら―!」と、名前を呼びながら近づいて来る者あり。
確かに、サラリ―マンとOLしか行き来しないであろうこの場所に
あまりにも不釣り合いな外観の女性であった。
アフロが伸びきったようなもしゃもしゃの髪、
眉毛は剃り落とし、マニキュアは黒の不気味な容姿と
ロングブ―ツにジ―ンズを仕舞い込んだ出で立ちで
颯爽と、馴れ馴れしく、その女は陽気に現れたのだった。
「話は聞いてる、歌を聴かせて、泊まる所も心配ない」
あれやこれやと、顔が広く取り巻きも大勢いるようで
その気っ風の良さに、これが江戸っ子気質ってやつか
と感心しつつ、流れのまま彼女のお世話になることにした。
この女こそが、何を隠そう今の女房なのである。

(画像は70年当時の京都発八重洲口行き「国鉄」高速バス。
ハイウェイバスと呼ばれ、ドリ―ム号という名称だった。

一喜荘時代 其の四

 
八重洲口で初めて会ったその女は典子、
周囲からはTENKOという名で呼ばれていた。
顔が広いというか、態度がデカくて図々しいというか
URCレコ―ド発足前の(伝説の)フォ―クキャンプ時代から
まだ無名だった頃の多くのミュ―ジシャンらと接していただけに
彼女と一緒にさえ行けば、ほとんどのライブやコンサ―トは
裏口から「顔パス」で入れたほどだった。
ばったり出会った遠藤賢司とも親しげに会話をする彼女のことを
晩年の彼は名前まで憶えていたというから驚きだ。

彼女の友人である写真家(当時はフリ―カメラマン)を介して
音楽評論家の大森庸雄さんを紹介され、とある夜に自宅へ伺った。
あれこれ話しながら一曲歌うと、モデルばりに美人の奥様が
「わたし、この子のマネ―ジャ―やりたい」と言い出した。
一同唖然・・(いきなりで、びっくりしたからね)
すると大森さん曰く、ニッポン放送がレコ―ド会社を立ち上げるんで
ミュ―ジシャンを探しているから声かけてみようか?
(後のポニ―キャニオン・レコ―ドである)
企画担当ディレクタ―は古くからの友人らしく
ニッポン放送のスタジオでデモテ―プを収録することがすぐに決まった。

画像はその時のスタジオ風景、ノイマンが2本セットされている。
傍らの女がTENKO、もしゃもしゃだった髪はストレ―トに変わり
お互い二十歳前の若かりし頃の一コマだ。

デモテ―プは録ったものの、ディレクタ―氏は会社の方針を吐露。
「実は、女性シンガ―を探してるんだよねえ・・」
それから暫くして、第一期生として華々しくデビュ―したのが
同じく帯広出身の中島みゆきだったのは、何かの縁なのかもしれない。
よって、美人マネ―ジャ―の登場は実現されなかったのである。