一喜荘時代 其の五

 
渋谷Jean Jeanで昼の部のブッキングを任されていたのが
当時の立教大学軽音楽部の面々だったことは先日書いた通り。
確かオ―ディションの日は5~6人の眼光鋭い男たちが居て
初めて顔を合わせたその日の夕方は一緒にご飯を食べに行った。
(記憶では)駅前に在った三平食堂の2階に陣取り
どのミュ―ジシャンを出演させるか熱く議論を戦わせていた。
大友さん、ツトム(後に僕のサポ―トギタ―となった男)
アントニオ、紅一点のミサト、他数名(名前は失念)
その大将であった大友さん、そしてツトムとミサトの三人が
風魔一族というバンド名で自らも活動していて
彼らの拠点である石神井での野外イベントや
地方のツア―に誘って頂いて行動を共にする機会は多かった。
気の合う仲間たちとの旅は実に楽しいものだ。

そういえば、ニッポン放送で
デモテ―プを収録した時に使っていたエピフォンのギタ―は
大友さんが欲しいと言うので1万円で譲ったんだった。
東海楽器製OEMの逆輸入品を帯広の楽器店で購入して
ペグをグロ―バ―の102に交換した(部品が高価な)代物で
たぶんツア―の旅費を僕はそれで補ったんだと思う。

彼らと付き合い始めて2年ほどが経過した頃だったろうか、
大友さんは忽然と姿を消し、風魔一族もコミュニティも
何もかもが、じきに消滅してしまった。
思えばあの当時、僕の周囲では失踪する者たちが相次いだ。
金銭的なトラブル、或いは女性関係が主な要因で
中にはプ―ルしてあった金を持ち逃げする者までいた。
70年代初頭というのは、大きな変化の狭間でもあり
この国は社会も人心も混沌としていた時代だったのだ。
そして僕は、行き場を失いつつあった。

画像は今でも(長く薄く)付き合いが続くツトムからの提供。
前述のツトムとは別人なのだが(ややこしいな)
Jean Jeanでのライブ時にはサポ―トでベ―スを弾いていた男だ。
今も健在なのが嬉しい。

一喜荘時代 其の六(前置き)

 
またちょいと話は遡り、一喜荘時代の少し前の話。
僕が高校時代に知り合った面白い男のことを。
(これを書いておかないと次の話に繋がらないのだ)

帯広畜産大学に在籍していた彼はヤンケと呼ばれていた。
京都の出身で「そうやんけ―」を連発することから
周囲の者たちは誰も糸川という本名で呼ぶことは無かったのだ。
いつもギラついた鋭い眼光を向けてはいたが
嬉しい時、楽しい時に見せる笑顔とのギャップが大きすぎ
ほとんどの者たちは近寄り難く思っていたことだろう。
けれど、僕とはいい関係だった。

帯広から出たい、大阪や東京で歌いたい
その野望を果たすため、小樽から舞鶴までフェリ―に乗り
電車を乗り継ぎ中津川のフォ―クジャンボリ―へと向かう。
そこでヤンケと再会し、最愛の女性であるミユキちゃんとも
僕は初めて顔を合わせることができた。美人である。
けれどその年のフォ―クジャンボリ―はというと
観客の質が悪く、演奏も中途半端な印象で
何かが崩れて行く前兆のようなものを感じて楽しめなかった。
主催者側の発表で25000人とも言われた大勢の人々とは
何も共感することなく、夜明けと共に僕らは引き上げた。
あまりにも劣悪な環境に腹が立ったのだ。

その足で京都の伏見に在るヤンケの実家に立ち寄り
図々しくも、そのまま居候させて頂くことに。
朝晩(時には昼も)食事を頂戴して、誰よりも早く風呂に入り
働くことも無く長居できるほど僕の心は頑丈ではない。
ヤンケが「ここに居ろ」と言ったからそうなったのである。
ゆえに肩身は狭く、遠慮がちにご飯のお替りをした。
やることが無いので、平日の昼間は市内へ出掛け
イノダの椅子に座って詩を書いたり本を読んだりしながら
あれこれと妄想を膨らませては、週末に飛び込みで歌ったり
カタギの暮らしではない自分が嫌になることもあったくらいだ。

それにしても京都の夏は暑い。ひどく蒸し暑い。
北海道の寒いくらいに涼しい夏が恋しくもなるほど
僕は少々投げやりになっていた。
(続く)

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